ルール

1月も終わりですね。

今日、初めて、ウインカーを出さずに右折するパトカーを見ました。
(出さなかったのか、出せなかったのかは知りません)。


それで思い出した、数年前に頭に浮かんだ思考実験(?)を書いてみます。


 「ルール」というのは、「みんなで決めた決まりごと」=「社会的な正義」であると言えるでしょう。
 そして僕達は、ルールが常に正しいとは限らないということを知っています。
 また、時にルールを破るようなこともします。

 交通ルールで言えば、周りに車も人もいない赤信号を渡ってしまったり、自転車で許可されていない歩道を走ってしまったり、お酒を飲んで自転車に乗ってしまったり…。
 それはもちろん、自分の中で「こういう場合は守る必要がない」とか「こんなルールはナンセンスだ」とかいろいろ思うところがあるわけですが、最終的に、そのルールを守らないという判断をするわけです。


 しかし、ルールは、「僕達に代わって判断してくれる決まり」なワケで、更にそれを守るかどうかを判断することはある意味ナンセンスです。そんなことならルールなんていらないんじゃないか、という話にもなります。
 逆に、殺人事件の犯人が、「私は、『人を殺してはいけない』とは思わなかったので、それが違法だと知っていましたが、実行しました。」と言ったら、許すことができるでしょうか?当事者ならなおさらです。

 ルールを守るかどうかを判断することは、そのルールの持つ強制力とか、意義を薄めることになるのではないか。そんなことを考えています。「なぁなぁになる」と言ってもいいでしょう。

 と言って、現実に、全てのルールに律儀に従って生きる生活は、恐らく窮屈でたまらないと思います。
 ドラマ「天才 柳沢教授の生活」の教授は、そういう生き方をしていたようですが、なかなかすさまじいものがありました(ちらっと目にしただけなので)。家の玄関を出ると、行き先は左なのに、まず右に曲がるのです。歩道のない道路は右側通行だからです。で、少し先の横断歩道を渡ってから引き返してきて、ようやくスタート。

 じゃあ、どうすればいいのか?
 僕が出した結論は、「ルールをないがしろにしてはいけない」ということです。
 世の中にはしょうもないルールもあるでしょう。どうしても守れない場面もあるかもしれません(もちろん、守るのが面倒くさいときも)。
 もしルールを破ってしまうとき、「破って当たり前」ではなく、「自分はルールを破るという、悪いことをしている」と考えること、そして咎められた場合にはその非を認めることが大切なのではないでしょうか?

 もちろん、「このルールはおかしい」という場面はあって当然です。しかし、そこで選ぶべき行動は、「おかしいから守らない」ではなく、「おかしいルールを変える(または無くす)ための行動を起こす」ことなのだと思うのです。
お遊びの域を出ないので、考えに矛盾や飛躍や穴があるかもしれません。いや、きっとあるような気がします。
気づいた人は教えてください。


前に少し書きましたが、僕は、決められたルールを破ることに対して並々ならぬ抵抗を感じる人間です。
その理由を考えてみたときに、結局それは分からず、その過程で生み出された産物です。